結構本を読むのが好き

 MIU404でお話を書く前、別のジャンルでお話を書いていた時期があったんですが当時はサイトを運営していて、そこには当然のようにブログというものがありました。何てことのない自分の日常をつらつらと書いたり、時にはさっき上げたこのお話はこんなきっかけで書きました!と裏話的なことを掲載していました。

 いやTwitterだと文字数足りなくない?!?!?と非常に当たり前のことに気づきました。時々無性にですが、お話を書くのと同じぐらい自分の考えや趣味や趣向のことを文字にしたいという欲求が生まれていて、以前まで自然に行っていたのをしてないな……?と改まってここが現在地です。

 

 学生時代(特に中学二年生から高校二年生までの四年間)今とは比べ物にならないぐらい読書量が多く、何なら通学中駅から学校まで歩きながら読んでいた(危ない)ほどでした。読むジャンルの種類はそこまで幅広くはありませんでしたが、友人から勧められた小説はすぐに読んでいました。とにかく文章を読めればそれでいいと思うぐらいには好きだったなあと、めっきり小説を読まなくなった今では思います。
 一文を読むだけで全身がこう、ぐっと引き込まれていく感覚って特別ですよね。読みかけていた文庫本のしおりを辿るのも、ページを捲る感触も何だかすごく好きでした。本を読む時は必ず音楽をかけていたんですが、気づくとその音もどこか遠くにいってしまうんですよね。それでも無音では読めないのは今も続いています。
 読書が好きでしたが、趣味、と明言できなかったのはその時間はいつも移動時間だったり待ち時間だったり、何かの隙間を埋めるための時間だったからでした。鞄やコートのポケットに入れておいて、時間があれば本を読むというのが当たり前でしたが、逆に休日に部屋やカフェで『本を読むぞ』とあえて時間をつくることはありませんでした。熱中はするけど特別ではない、そういう時間。どれだけ続きが気になっていても、不思議なことにまとまった時間を用いて読むことがありませんでした。
 なので、旅行などで移動時間が長い時はたくさん読書をしていました。片道で読み終わってしまって帰りどうしよう……と困ったことも何度もあります(笑)
 先ほど音楽がないと読めない話をしましたが、同じように移動している時の電車や車、新幹線や飛行機の微々たる振動がある方が何だか読書に耽ることができるんですよね。むしろ本に関してはじっとしている時の方が読めない気がします。

 

 かなり前の話になりますが、祖父が入院していた病院がバスで片道三十分かかるところにあって、その時に読んでいたのが東野圭吾さんの『幻夜』でした。車両の後部座席の右側の窓際に座って、いつも通り音楽を聞きながら読み進めていた記憶はただの日常であるはずなのに、今でも鮮明に残っています。あまり重い話をしたいわけではないんですが、その日、病院で会ったのが祖父との最期でした。今『そふと』って打ったら『ソフト』って出てきました。こういう時に息が抜ける誤変換って気が緩みますよね。その時どの場面を読んだのかも、夕方から夜に近かったことも、すごくよく覚えていて、自分にとって読書という立ち位置の大きさに気づいた瞬間でした。

 一度好きになった本は何度も繰り返し読むようになったのは、福井晴敏さんの『亡国のイージス』がきっかけです。書籍は丁寧に綺麗な状態で保管しておきたいというヲタク心とは別に、衝動に任せてとんでもないぐらいドッグイアをしてしまっています。
 自分の心が動く瞬間、動く文章、動く言葉はこういうものだ、と具体的に示された時って本当に思考が停止するんですよね。何度も読み返して落とし込んで、噛み締めることができる喜びを知りました。
 同時期か少し前に、夢小説にも出会い、チョットマッテ……?エッこんな素敵な文章を無料で……?とパソコン画面を目の前に衝撃を受けました。この辺りは定かではありませんが、確かテニスの王子様が夢小説との出会いだったと思います。確か。恐らく。不二先輩が好きです。
 それからお話を読んだり書いたりをなんやかんやで続けています。手先はすこぶる不器用ですが、タイピングゲーム(コナン)が好きだったので向上したタイピング力にも助けられ、口にするより手で打って自分の気持ちを言葉にするタイムラグがなくなってました。就職活動の特技欄に堂々と「タイピング」って書きまくりました。それだけの自負はある程度持ち合わせて生きていける気がします。

 

 語彙力や表現の感性って難しいなあと常々思います。自分の引き出しはどう頑張っても限界があるし、こうしたいとかああしたいとかいう理想ではままならなかったりしてしまう。それでも何とか絞り出して、時々自分でも思っていた以上の文章が書けたりすると、靄がかかったように淀んだ思考が一気に鮮やかになったりするんですよね。
 ああ、それそれ!そう言いたかった!と言葉が自分の思考から生まれてくる瞬間ってやっぱり特別だなと思います。
 そしてそういう時って、たくさんインプットを入れた時が多いです。誰かの文章を読んで感動したり、何かの映画を観たり、ドラマで印象的な台詞があったり。自分の琴線に触れたな、って分かる感覚はページを捲ったら次にどんな文章や言葉あるんだろう?と高揚していた時に似ています。

 

 余談ですが、わたしは学生時代いろんな悩みやもやもやを日記にしようと手帳を買ったものの、いやもう書くより打つ方が早くない?!?!??!?!と誰にも公開していない自分だけのブログを作って日々打ち込んでました。そうやって感情を文章にすると自分が今何に悩んでいて、何を悲しんでいて、何がつらいのか徐々に明確になってやり場のない感情を落ち着かせることができました。
 今はもうマイナスな気持ちを文章にすることはなくなり、志摩さんが好きすぎて無理!!やだちょっと格好よすぎるんですがこれ以上好きにさせる気か?!?!?とやり場のない推しへの好きを表に出したりお話にすることの全精力を注ぎこんでいると言っても過言ではない。
 負の感情を言葉にしている時って大概落ち込んで、落ち込み切って浮上するんですが、志摩さんのことを考えるといつも尊いので精神衛生上が大変良好です。ありがとうございます(?)

 

 ちなみにエッセイも好きでよく読んでいたんですが、真面目な話の中にユーモアを織り込むことの影響を受けたのはさくらももこさんの『もものかんづめ』です。真面目に話す日常的な話ほど面白いものはない。

 

 読むのも書くのも楽しいです。誰にも見られなくていい、誰にも見られたくないと内にこもって日記代わりにしていた時も結構、いやかなり。

 感情を文章にするのはすごく良いものだと思う。